私が好きな言葉に、このようなものがある。
「人にして仁ならずんば、礼(れい)をいかんせん。
人にして仁ならずんば、楽(がく)をいかんせん」
端的に現代語訳すると、
「人として思いやりのないようでは、礼儀がどうこう言っても意味がない。
人としての情愛がなければ、音楽の善し悪しがどうこう言っても始まらない」
という意味だ。
マナーも礼儀作法の一つであるからして、この言葉は非常に含蓄のあるもので、現代において形骸化しつつある礼儀のありかたに対する、紀元前400年前からの金言と言ってよいと思う。
人としての礼儀なんてものは必ず必要になってくるものであるが、その礼儀が「何のためにこそあるものなのか」を知っておかなければ、いくらマナーや作法に詳しくとも、中身のないものになり果てる、ということだ。
上記の言葉を遺したさる賢人は、礼儀そのもののありようよりも、そこに関わる人の思いやりこそ重要だと説いたのである。
人は、諍いや問題をある程度嫌がる性質で、だからこそマナーやルールを整備するわけだけれども、そのマナーだのルールだの言ったって、実は完全ではない。
人ひとりが「個」である限り、完璧に同じ答えはないのだ。ルールブック未所持問題とか、シナリオ展開に非協力的なプレイヤーに対する対応とか。同じ問題に対して意見が割れることは珍しくはない。
違う意見が存在することは何も悪いことではない。それなりの根拠があって発言の場に立っているのだろう。
問題に対して可否を問うとき、人は時に惑うこともあるだろう。
もちろん、その場に置いてあらかじめ決められているマナーやルールが無意味というわけではない。具体的なタブーが分かっていれば、避けられる事態はたくさんある。
何を信じ、何をすればいいか分からなくなった時は、要は基礎の基礎となるマインドセットを確立しておけばいいという話だ。
私は物事の可否に惑った際、上記の先人の言葉を思い出すようにしている。
マナーやルールは何のためにあるのか。それは大抵、相手に対する尊重や思いやりを示し、良好な関係を築くためである。人にして仁を志しているのであれば、問題に直面したとき、どう動くべきかはおのずと分かってくるはずだ。