温森おかゆの雑文倉庫

主にTRPGについての個人的集積。

楽しいシナリオのつくりかた

 TRPGのシナリオ作りや、すでにあるシナリオの改変をすることは、ある程度TRPGを続けていれば1度や2度あるだろう。
 そこで最も重要となるのは、やはりそのシナリオをプレイするであろう“誰か”への「思いやり」だと、私は思っている。
 ここでの思いやりは、具体的には「このシナリオをプレイする人はどのようなシチュエーションを喜ぶだろうか」とか「プレイヤーはこのシナリオに何を求めるだろうか」などといった思案のことである。プレゼント選びのときの悩みにも似ている。シナリオをシナリオ執筆者からプレイヤーたちへの「プレゼント」と例えるなら、理解できないでもないか。

 執筆段階では、それらの思案は全て執筆者が行わなければならない。だって、執筆途中でプレイヤーを引っ張ってきて、出来上がってもいないシナリオに付き合わせ、打ち切り状態のセッションを指して「意見をくれ」と言うわけにもいかないだろう。
 だから執筆作業は、TRPGの中では必ず孤独なものとなる。
 だがそんな孤独な作業でも、シナリオを完成させ、プレイする段階になった時、GMレスのソロプレイでもなければ、それは必ず自分以外のプレイヤーが関わるものだ。
 そうした時に、いかにプレイヤーがそのシナリオを楽しんでくれるかというのは執筆段階で操作こそできないが、楽しめるように工夫することはできるはずである。

 

 そこを、「いかにプレイヤーキャラクターをシナリオの歯車として取り込んでやろうか」とか「いかにプレイヤーを苦しめてやろうか」とか考えると、そういう気持ちは必ずシナリオに組み込まれた“悪意”としてプレイヤーに伝わり、つまらなくなる。

 勘違いしてはならない。セッションの成功、良いシナリオの条件が「プレイヤーがプレイして楽しいと思えるようなもの」だと執筆者が思うのなら、執筆者が設定すべきは「プレイヤーがシナリオの困難を乗り越えて気持ちが良い、楽しいと感じられる」障害だということだ。
 シナリオ執筆者にしか分からないようなヒントのないなぞなぞを出したり、プレイヤーキャラクターをシナリオのモブキャラクターとして取り込もうとすると、それは必ずどこかのプレイヤーを不快にさせる。

 良いシナリオにしたいと望むなら、シナリオ執筆者はプレイヤーが楽しめるように考えた方が無難だし、もしやろうとしているシナリオに執筆者がついうっかりそういう悪意を滲ませてしまっていると気づいた時には、GMはあくまでプレイヤーにバレないように、そっとその悪意を抜いてあげることも必要になってくるかもしれない。