温森おかゆの雑文倉庫

主にTRPGについての個人的集積。

クソゲーをいかに楽しむか

 というマインドは、結構使えると思うのだが、どうだろうか。

 ……と、ファミコンスーパーファミコンのスーパー・電源ゲーム・黎明期のプレイ動画を見ながら漠然と思っている。

 TRPGにもクソゲーはあると思っている。いや、TRPGのシステムの何かひとつをこき下ろすつもりはない。
 ただ、この世にKOTY(クソゲー・オブ・ザ・イヤー)というものがあるかぎり、というか、人の趣味嗜好が千差万別であるかぎり。誰かにとっての「クソゲー」はいつの時代にも存在すると思っている。そしてそれは、なにも電源のあるゲームに限った話でもなかろう。

 

 TRPGクソゲーとは何だろうか。TRPGというものは土台をデザイナーが調整したゲームで、一般人からデザイナーまで幅広い人々が、多くのシナリオを世に出すので、シナリオごとにバランスが大きく変わってくるということもあって「クソシナリオ」のほうがあり得るのかもしれない。
 判定ひとつでPCがロストさせられるとか、ロスト率が異常に高いとか、異常に不親切だとか、まあ色々と。

 それをクソゲー要素と断じる条件にするか否かについては、やはりひとりの人の嗜好のみに絞って判断しきれないものだと思う。それをクソだと断じる人もいれば、条件次第で面白いと感じる人もいれば、別に気にならないと感じる人もいるのだろう。

 実際のところ、ファミコン時代とか言われる電源ゲーム黎明期は、クソゲーの全盛期でもあった。ゲームバランスが滅茶苦茶なのは当たり前、ちょっと進めば雑魚すら倒せなくなり、雑魚から手に入る経験値がしょぼくなるのも当たり前。昔は今と比べて、ゲームを作るにあたりゲームバランスが洗練されていなかったため、そんなゲームが世に送り出され、そしてそれが当然のように受け入れられていた時代だそうである。

 

 ……要するにクソゲーというものは、その要素に慣れてしまえばそれほどクソではなくなる、ということなのではないか?
 あるいはより快い感覚を知りさえしなければ、クソな作業ゲーだろうがクソなバランスだろうが当たり前のように感じられるのではないか?

 

 そんなマインドは、TRPGにも使えるのではないだろうか。

 ……とはいえクソ要素に当たった時に、「あー慣れた。俺これ慣れたわ」と自己暗示するわけにもいかないし、慣れにも最初は苦しい時期もある。

 そういう時に「セッションを継続することを前提」として私が思いつく対処法は、やはり「覚悟」これ一点のみである。
 クソ要素にあたってしまった。またはシナリオがとんだ地雷だった。だが辞退はするほどでもない、あるいはしたくない。GMや他のプレイヤーにも不快感は抱かせたくない。ただクールにスマートに受け流したい……。

 そんな時こそ「覚悟」なのではないだろうか。さながらバンジー直前の恐怖を飲み込むがごとく、さながら清水の舞台から飛び降りるがごとし。一点集中でその綻びに対して目を逸らすか、真正面から立ち向かう覚悟を決め、ただその厳しい現実を右から左へと受け流す。日本男児の心意気。

 西に暴言暴力足手まといヒロインあれば、行って思いっきり茶化してやり
 東に高ロストのシナリオあれば、「どうせ死ぬんだから心配しなくてもいい」と言い
 地雷を踏んだら切り替えて、茶化すかその要素を別ベクトルで楽しむことにするかは自由である。

 なんにせよ、土壇場でも楽しむマインドはTRPGという娯楽以外においても有用なものだろう。

 

 まあ冗談はさておき、そうして耐えられるのならまだしも、「覚悟」や「忍耐」で片付かないようなクソ要素であるのなら、悪いことは言わないから悲しみを押して辞退することも視野に入れることができる、という前提はあるべきだ。思いやりをもってシナリオを作ろが、それでおまんま食ってるプロのデザイナーだろうが、やはり万人受けするようなゲームは作れない。だからと言って開き直って明らかにクソと分かっている要素を織り交ぜるのは全く感心しないが、世には「誰かの好きは誰かの地雷」という言葉があるように、思わぬところで地雷を踏み抜くこともありえるのである。

 その地雷を踏み抜いてしまった時こそ、人の品性が出るのだと思う。