「人が最も残虐になるときは『悪に染まった』ときではない!
真偽どうあれ『正義の側に立った』と思ったときに
人は加虐のブレーキが壊れるのだ!」
──「氷室の天地」
自分は正義側に立っている。相手は悪である。そういった考えが、その手にいつの間にか棍棒を持たせているのである。
相手は悪だ。何を言おうとも、何を主張しようとも、相手が間違っているのだから耳を貸す必要はない。叩きのめせば良いのだ、と、その耳にささやく。
──果たして、それが正義ならんや。
昨今、SNSでも話題のとある正義を語る団体さんとかが、だいたいこんなような攻撃のしかたをしていることはよくある。
自分の正義を強く主張し、周囲が何を言っても、論点を逸らしたりブロックして聞く耳を持たず、何が起こっても、自分たちの行動で議論の場が荒れ狂っても、自分たちは正しい、相手が間違っている、と、主張し続ける。
そうして、正義のこん棒で人を叩き続けるのである。
はっきり言って、そうなってしまうともう「正義側に“正義”はない」と私は思う。
正義を振りかざし、相手の言論を封じ、粛正してやるとばかりに攻撃し続ける。
断言しよう。それこそは暴虐だ。
……大昔の言わずと知れた偉人、聖徳太子が「十七条憲法」でこのような言葉を遺している。
我必ず聖に非(あら)ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫(ぼんぷ)ならくのみ。
(自分が必ずしも正義とは限らない。
相手が必ずしも愚かであるとは限らない。
それぞれに心があり、思うところがある。共に等しくただの人でしかない)
──これは私の自戒でもある。
一個人の基準など、はっきりしたものだと思わない方が良い。人間自体、完璧ではないのだ。自分の持つ正義が総てにおいて通用するものであると、誰が喧伝できようか。
自分は正義だ、相手は悪だなどと、そう簡単に思わない方がいい。それを続けていたのなら、いつか間違いなく、自分の方が落とし穴にはまりこむ。
相手の掲げる悪だと思っていたものが、実はまっとうな主張であった時。自分の掲げる正義だと思っていたものが、土台からボロボロと崩れ落ちていく時。
そこで戻れなければ、崩壊する「偽善」の泥船と共に沈んで、圧し潰されるのみである。
あくまで主観。あくまで傍観。あくまでその手から、天秤を手放してはならない。